1950年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率いる北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも関わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかったので、北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
しかしその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった(GHQ外交局長シーボルトの回想による)。6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送と米民間人救出のための船舶・飛行機の手配を行った。
28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩ら要人との会談を行った。その後前線視察を行い兵士を鼓舞し、すぐさま東京へ戻った。
仁川上陸作戦 [編集]
7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍・在韓米軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日米軍第八軍を援軍として派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気を大きく高めた。
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1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で、マッカーサーは李承晩に「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。彼はすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、9月に仁川上陸作戦を成功させてソウルを奪還した。しかし、中華人民共和国との国境まで迫ったこともあり、実態は中華人民共和国の国軍である人民解放軍で結成された「義勇軍」の参戦を招き、その後戦況は一進一退に陥った。
1951年になると、共産軍の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。このような状況を打開することを目的に、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立した。4月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。
副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。
マッカーサーの更迭については、日本の非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。
4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に羽田空港から離日した。